日本語教師へのインタビュー① アディアツェレン先生
1994年から2012年まで、モンゴル子供宮殿(旧ピオネール宮殿で日本語教育をされたアディツレン先生を紹介します。
民主化後のモンゴルで、子供たちへの日本語教育の先駆けとなられた方です。
アディアツェレン先生へのインタビュー(2023年5月2日)
Q:まず、先生が日本語を勉強しようと思ったきっかけは何だったのか、話していただけますか。
アディアツェレン先生:
それはねえ、長い話になりますよ。実は私は生まれてすぐに養女に出されたんですが、そこの家のおばあさんがとても優しくて、私を可愛がって、大事に大事に育ててくれました。おばあさんに聞いた話ですが、時代は、1945年から50年頃、まだ※ソヴィエトの捕虜としてモンゴルに送られてきた日本兵がウランバートルにいたときのことです。
収容所の近くを通っていたとき、捕虜の日本兵たちが、体は向こうに向けて、柵の間から手だけを伸ばして、何かを要求するように手を振るのを見た。彼らの顔はモンゴル人にそっくりで驚いた。彼らがおなかをすかしているのが分かったので、何度か柵の外から食べ物を渡した。すると、彼らは受け取った物をすぐに口に運んだ。
捕虜と言うよりは、まるで自分の息子のように思えた。監視兵に見つかると刺されるので危険だし、一度刺されたことがあるけれど、何度か彼らに食べ物を渡した。
この話が将来、私を日本語教育につなげたのだと思います。
※ 第二次世界大戦で、日本の敗戦後、ソヴィエト(現ロシア)の捕虜になった日本兵がモンゴルにも送られてきた。
Q:先生は今はもう定年退職していらっしゃいますが、何年から何年まで子供宮殿で日本語を教えていらっしゃったのですか。
アディアツェレン先生:
1994年から2012年までです。その頃、日本語は人気がありました。
Q:一クラス何人くらいいましたか。
アディアツェレン先生:
15人から20人くらいいました。当時は、日本政府の援助で、子供宮殿の舞台装置などの修復、そして何よりも日本語教育のための教材をたくさんいただきました。
Q:週何時間授業がありましたか。
アディアツェレン先生:
毎日ですよ。学校に通っている子供たちで、午前、午後、5~6クラスありましたから。
Q:学習期間はどのくらいだったんですか。
アディアツェレン先生:
1年から3年です。
Q:先生のほかに、日本語教師はいましたか。
アディアツェレン先生:
いいえ、ずっと私一人でした。当時は、日本語のほかに英語、ロシア語、韓国語、中国語、ドイツ語、フランス語のクラスがありましたが、その先生たちに、授業のやり方を教えていました。
Q:日本語祭りとか、授業以外に何か活動をやっていましたか。
アディアツェレン先生:
はい、モンゴル国内で初めて子供宮殿主催の日本語オリンピアードを毎年行いました。日本大使館が応援してくれていましたし、人文大学(旧モンゴル国立外国語大学)も先生たちが協力してくれました。でも、テストは全部私一人で作成しましたよ。人文大学は、会話の試験をやってくれました。
Q:先生が日本語教育を始めた頃はどんな教科書を使っていましたか。
アディアツェレン先生:
その頃は日本語の教科書といえば、『日本語初歩』しかありませんでした。少ししてから『ひろこさんの たのしい日本語』を使うようになりました。
Q:先生は 日本に行ったことがありますか。
アディアツェレン先生:
はい、二回行きました。二回とも国際交流基金の研修です。一回目は1997年に9カ月の長期研修、そして二回目は2007年、ちょうど10年後になるんですけど、2か月研修に行きました。
Q:子供宮殿時代、日本語学習熱はどうでしたか。
アディアツェレン先生:
とても高かったですよ。多くの子どもたちが来ました。ほら、この写真を見てください。これが〇〇さん、これが〇〇さん、ときどき連絡をくれる子もいますよ。
Q:学習期間はどのくらいだったんですか。
アディアツェレン先生:
1年から3年です。
アディアツレン先生、本日はどうもありがとうございました。